のんびりと考える

どうも。

台風の影響は関東に住んでいる僕にはあまりなく(いきなり6期生ゼロポジライブに行けなかったという精神に対する大打撃はありましたが)、現在はバイトに向かう電車内です。

 

今日はいつもとは趣向を変えて、僕が大学受験勉強から解放されて以来ずっと考えていることについて、ちらっと整理しつつ書いてみたいと思っています。現代社会に生きる一員としてのスタンスのような話です。面白くはないかもしれないし、ひとつひとつはどこかで語られているようなことなので、それでも読むというお優しい方のみどうぞ。僕自身としては、核心をつくような抽象的な議論は繰り返すべきだという持論に立ってこのような文章を書くことにしています。

 

 

日本は単一民族国家だ、などという言説("神話"ともよく言われますが)に私は賛同しません。事態はむしろ逆で、僕たちの「日本」は、そして「世界」はさまざまな意味合いで広くなりました。

現在の日本は、移民受け入れ政策を取ってはいませんが、外国人技能実習生制度は拡大し、「日本」はいわゆる「日本人」のいる国ではなくなっています。(そもそも「日本人」とは、という話ですがね。在日コリアンの方や、アイヌ民族の方、琉球民族の方…etcをどう捉えるか、というのは、近代への目線とも関係するように思います。)6年間で100万人を超える実習生を受け入れているのがこの国です。

(参考資料:https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11800000-Shokugyounouryokukaihatsukyoku/0000174642.pdf 技能実習制度の現状)

ローソンをはじめとするコンビニ業界は実習生という形などではなく、もはや留学生を採用してますし。東南アジア系の方なのかなぁ…と見受けられる店員さんも増えてきました。

(参考記事:https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.sankeibiz.jp/business/amp/160726/bsd1607260500001-a.htm%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoATgA SankeiBizより)

また、これもよく言われることですが、交通の発達で距離的にも、また情報通信の発達で時間的にも世界は「近く」なりました。格安航空や夜行バスを使えば学生でも十分遠出を楽しめますし、パソコンは1990年代と比べれば破格の安さで手に入れられるようになりましたよね。一般人でもパソコン環境さえ整えば、世界の裏側と一瞬で電子データのやりとりができる。以前と比べてその「近さ」の恩恵にあずかる人は爆発的に増えています。

(参考資料:https://search.yahoo.co.jp/amp/s/middle-edge.jp/articles/I0001147.amp%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoATgA パソコンの価格推移)

これだけ世界が一体化してくると、いくら島国日本といえども、様々な文化背景を持った人々と一緒に生活していかなければならないのは必然と言えるでしょう。

 

話は変わって、これは丸山眞男の『日本の思想』の中ですでに語られていることですが、僕たちはある対象について、一定のイメージを作り上げて生きていくものです。その方が生きやすいから。一つ一つを細かく見るよりも、大きくくくってしまった方がわかりやすいから。

これだけ広くなった日本、世界を生きるためには、イメージを駆使しないとわかりづらい、生きづらいのだと思います。ただ、そのわかりづらさこそが面白いのではないかとも思いますが、そこに言及するにはまだ僕の言葉にする力が足りないのでやめておくとして。

しかし、このイメージというものは確かにコミュニケーションをスムーズにするいわば潤滑油として役立つのだけれども、近年の僕たちの社会には潤滑油どころかこびりついた油汚れのように、凝り固まったものとしてイメージを持っている人が多いのだろうと感じることもあります。

僕は上述してきた事実に自覚的でありたい。そう思います。イメージを勝手にもつのをやめろ、なんてことは絶対に言えない。むしろイメージを形成するという人間の力は偉大だとすら思います。ただ、その対象が可変体である以上、イメージだって変化を続けるしかないのです。そうなるとイメージを作っても結局面倒くさいじゃないか、という話になりますが、それは宿命でしょう。イメージを使わずに生きていくことはできないけれども、なるべくイメージがその対象の実像と近づくよう努力していくことはできる。僕はその努力を怠ってはならないと思っています。

 

近頃のネット上で力を持つのは、ずっと一貫した主張をする勢力であるように思います。もちろん左右の立場問わず。もちろん人としての「筋」は通すべきだと思うけれど、しかし主張自体は時が経つに連れて修正されたとしても当然ではないでしょうか。僕は無理にでも一貫性を優先させて、白黒つけなきゃ気が済まない議論に与しない。そういう人々にとっていわばノイズのような存在として、白と黒の間を突くようなことをできればいいなと思っています。

 

なんて話をちまちま書いていたら3日経っていました。笑

まだまだまとまりの悪い文章にしかできませんが、とりあえずは書くことが大事だと思っています。考えもなしに書くことは無駄でしかありませんが、一定の思考を経たものは活字にしてみるということに意味があるのではないかと。

何はともあれ、このような駄文に最後までお付き合い頂いた方、ありがとうございました。

ではまた。